昭和40年 日付不明(Ⅱ) テープ№048 B面-2



 ・・・どくだみ、どくだみという草があります。あれには、かわいい、この白いあの、可愛い花が咲きます。あれは、摘み取りますと、もう大変臭い草ですけれども。あれを陰干しに致しますと、もう、何の薬にでもなるような、薬にもなります。で、いわば、あのどくだみのような臭い草でも、白い可愛い花を咲かせる。それを、日陰干しにすれば、薬になる。私はお道の信心は、このそういうような風な心の状態でおかげを頂いて行く事だと思う。もう、この状態にならせて頂くという事が、実は和賀心であり、神様をいよいよ信ずる稽古をして行かなければ出ける事じゃないのです。ある時、教祖の神様、夏の事だったんですね。お袴も履かずに、このおられた時代があったんですね。御結界にお着きになって、まあ、お参りをして来る氏子に、懇々として御理解をお説きになる。ところがです、ちょうどその時に、一匹のそのムカデが出て来たんですね。そして、こう大変肥えておられたらしゅうございますね、教祖の神様は。ですから、こうやってお座りになっておられると、ここが少しはぶけておった。そこから、そのムカデが這い上がって、こう御理解を頂いておるモンの方が冷や冷やして。それでも、もう知らん顔をしてその御理解を説き続けられたという事です。そしたら、ずっとその上がって行くけどですね、どっか(背?)の辺りから、こう出て逃げて行ったというお話がございます。ね。どうでしょうね。ところが、それば入ったのを、その、まあ、虫を叩くかどうかするところへ、こう、射されなかればならない。ね。同じ事でも、こういうような状態でおかげを頂いて行けばです、ね。本当に有り難いおかげになって来るんですね。昨日、昨日の朝の御祈念の後でした。久留米の井上さんが、今朝参りをしておられます。で、お届けをされますのに、先日から長女の由美子さんて言うんですけど、今年から中学校に参ります。なかなか素直な良い子ですが、毎日久留米からお参りをして来るんですね。で、御理解を頂いてから、帰ってそれを、まあ、ご飯の時なんかそのお父さんやらお母さんに話すっちゃん。(まあ、いわば?)改心な子なんです。ところがです、昨日でしたか、一昨日だったでしょうか。中学校の入学式にやらせて頂いた。そして帰って来てから、その由美子さんがお母さんに言う事なんです。本当に、もう今日はお母さん、ガッカリしたっち。何でそげんガッカリしたかち言うた。もう、私は神様、毎日神様、椛目にお参りさせて頂いてから、もう心の中で一生懸命お願いして来た。それは、どうぞ自分達の好きなグループが同じクラスになるようにと言うて願っておった。先生も、どうぞあの先生が担当して下さるようにと言うてお願いしとったという訳。その先生も、他に行かれた。グループも、もうバラバラで、その全然知らない者の中に、その入ったとこう言うのですね。そこで、そのお母さんはすぐ、その考えたんです。ああ、それは神様の御都合じゃろうて。それがちゃんとおかげになって来ると。と、こう言おうとしたけれども、まあ、待て待てとこう思ってですね。それこそ、金光様、金光様と。子供がせっかく椛目にお参りをさせて頂いて。ね。そして、願うた事が成就しなかったと言うて、ガッカリしたと言うて帰っておりますと。けれども、本当の事が分かりませんからでございますけれども、どうぞ心の上にお繰り合わせを下さいと言うて、願うておって、もう本当にお母さんの祈りが足りなかったけん済まじゃったというごたる顔をしとったち。そしたら、10分ぐらいしたら、その由美子さんが言う事がです。ね。お母さんて、ね、本当を言うたら、これでおかげじゃんね、って言うたっち。ね、自分の思うとになるという事だけがおかげじゃないて。神様が一番良い道を開いて下さるとじゃから、これがおかげじゃんね。もう、私はそう思うたけれどね、お母さんがどげん言うじゃろうかと思うて。お母さんが、それは御都合よとか、おかげよと言うたら、私が必ず抵抗しておっただろうと。ところが、やっぱりいくらか、そのムラムラがあったんですよね、願いが成就しないのですから。けれども、お母さんに済まなかったといったような顔をされたらですね、かえってお母さんを慰めてから、だいたいは、それがおかげだと、こう言うたという話を聞かせて頂きながら、お道の信心はここのへんが大事なことじゃないかと、こう思うですね。あれだけお願いしたけどおかげにならなかった、と言うて子供は帰って来た。ちゃんと、それをおかげだと言うて、例えば、んなら日頃親が頂いておる御理解をです、子供に言うて聞かせてそれがおかげである事を強調してもです、子供はおかげと感じても抵抗するでしょう。何でん、おかげおかげと言うてからといったような事になって来るのでしょうけれどね。そういう風に、黙って祈るという事が大事なんですね。私は今日、あるここの御造営の事で色々お世話して下さる人の事を、ある人がどうもあの人はおかしいと。いわば、こちらが騙されよりゃせんかといったような事を言うた人があった。そのことを私はお願いさせてもらいよったら、一番はじめに申しましたように、どくだみの花に綺麗な白い花が咲いておるとこを頂いた。ははあ、もう、どくだみと言やあ、あれは、もう誰でも(    )でもない、いわば臭い、その草なのだけれども。ね、それにでも、やはり白い花が咲くということ。ね、それを例えば積みとって、なら陰干しにでもしておけば、それが、いわば薬にでもなるようなという事なのです。これに騙されたと。これは臭い、と言うて行くところには、お道の信心のいわば生き方、進め方ではないということ。ね。そこを、場合には時節を待っておかげを受けたら良かろうという事にもなり。ね。馬鹿と阿呆で道を開けと。この馬鹿と阿呆で道を開かせて頂くところにです、どうしてこのような道が開けて来たかという、どうしてこのような不思議なおかげになって来たかというおかげになって来る。いわば、それが薬になるようなおかげになって来るのですから。お互いが日常生活にですね、それが例えば、本当にビックリするような事ですね、ここにムカデが入って来るんですから。けれども、そういう時に、慌てんで済む信心をしとかなきゃならん。ね。いわゆる、金光様を念じさせて頂くところにです、ね、射される事もなくて、いわば、その出て来るようなおかげを頂かれるのである。ね。本当にあの、金光様の信心は、実にいわば、言うなら消極的な感じですね。ムカデが這い登っとっても、ジッとこうしとかんならんて。ね。手っ取り早う子供達が不平不足を言う時にです、不平不足を、どうしたら不平不足を言うかと。こういうおかげを頂いておるのに、それはおかげぞと。例えば、整然と話して聞かせてもです、腹別れするごとあるけれども、それではいかにも賢いようであり、利口のようであるけれども、それでは子供はおかげは受けられん、受けきらんということ。ね。昨日一昨日でしたか。ある人が、もう家の娘ばっかりは、もういくら言うても言う事を聞きませんち。もう、本当に歯痒い事だというお届けがあった。そしたらね、自動車が溝の方へちょっと片一方の車が落ちておるところを頂いた。ははあ、親にがみがみ言うのもです、子供が片一方の車の片一方をちょっと、こう溝に落としとるとだから。ね、それを喧しい言うのじゃなくて、ちょっと引き揚げてやる気持ちになったら、おかげと私は申しましたら、その分かられるんですね。やっぱりイライラモヤモヤせねばならん時に、何かがあるです。思い、動かん時なんです。ああ、それはアンタ、落ち込んどるたいと言うて、ちょいと手伝えばすぐ上がるような感じの車が、ちょっと低い所でこう、入っておるところを頂くんです。ですから、もう本当に家の娘ばかりはと言わずにです、そういう時には、ちょっと抱えてあげてやる気持ちになるのですよ。そこに、私は豊な心がどうでも必要だと。ね、いわゆる、馬鹿と阿呆にならせて頂きゃいいとか、必要であるということ。ね。そこから、私どもがですね、いわば思いもかけない道が開けて来る。いわば、薬になるような道が開けて来る。こういうような草や、いわば草花がです、ね、しばらく陰干しにしておったら、薬になり、万病の薬になるような道が開けて来る。ね。草にも、やはり白い花を咲かせるそれを持っておるという事。ね。そこへんを、私は成り行きを大事にしていけ、成り行きを尊んで行けとこう言うのである。そこんところを合掌して受けさせて頂くという事がです、(右?)では、よし痛い事であっても、損する事であってもです、ね、それは一応はああでもない、こうでもないと、いわばしましてもです、結局はそこにしか、その(成り行き?)がついて来ないならば、それを受けて行くより以外にはない。で、せっかく受けるならば、やはり有り難く受けて行く事が信心であるということ。私どもは、もうその、どくだみの花をですたいね。いわゆる、そのどくだみの花としてですね、どくだみとして、いわば薬にしきらずに、本当にいわば鼻持ちならんとか、臭いとかと言うて、よくそれ排斥しておるような事はないだろうかと、こういう事ですね。ああ、危ないと感じたら、もう危ない事の先に、いわば度胸の出来れる働きが頂けれるのだけれども。と言うては、それを取り除そうとしてから、チカッと刺されるようなおかげを頂いたのじゃなかろうかと、こう。ね。ガチャガチャ言わんでも、せんでも済むような時にです、自分も暗い心の思いをせんで済むおかげを頂けれるのにです、ね、どうしてこん奴は動かんだろうかと言うて、その(ごうごる?)ようにせずにです、それは、ちょっとこちらが、ね、手を下げて上げてやる気持ちになりゃ、その車も動き出すようなおかげになるのに。家の娘ばかりは言う事は聞かん、もう本当に家のお父さんにゃもう、と言うて、その自分も暗い心にならなきゃならん、娘もイライラしたなりで終いなければならん。こげな馬鹿らしい話はない。ところが、信心を頂いてる者の、いわばその、値打ちというものが全然ない。そういう中からです、ね、馬鹿と阿呆で道を開けと簡単に言うけども、その道がですね、どうしてこのような道がというな道が開けて来るです。ね。そこを頂き抜く為に、今朝の御理解ではないですけれども。私は、あの、坂本繁二郎さんを頂いた。坂本と。あれあの、有名な画家なんですよね。八女郡の方なんです。あの方は、もう、その馬を書かれては、もう天下一品のと言われておられるような、見事なその馬を書き上げられるのですね。ね。いわゆる、その、坂本繁二郎の繁はですね、繁るという字が書いちゃる。いわゆる、繁盛の繁である。繁盛のおかげを頂くという事をですね、もちろん信心をして頂かなければならんけれども、その信心するというのがです、やはり、坂が本であるという事。坂というのは、この修行という事である。ね。修行が本で、繁のおかげが頂けれるていう事である。繁盛の方へ受けられるという事である。同時に、坂本さんの糸とされるところの、馬のいわば絵というのがです、誰でもここでは馬のお知らせを、まあ、卑しい心といったような頂く。汚い心と、浅ましい心なの。ね、そういう、例えば、んなら浅ましい心を自分の心の中に発見する。自分の(   )心の中にはそんな浅ましいとか、卑しい心はないように思うとったけれども、信心の光というが少しこれに燈るようになるとです、信心の光に(てらいかされる?)ものは、ああ、自分はこん卑しい心があった、こげん汚い心があったという事なんである。ね。だから、それに取り組ませて頂いて、それを繰り返し繰り返し、いわば描かせて頂いて行くところにです、ね、ああいう、例えば素晴らしい馬が書き上げられるようになるという。いわば、卑しい心のあったおかげで、それが信心の稽古の材料になって行くという事である。それが修行になるという事。そういう修行が繰り返し、私は、このなされて行きよらなければ、今日は私が申しますようなですね、馬鹿と阿呆にもなれない、成り行きをいわば尊ばせて頂くというような事にもならない。ね。いわば、臭いどくだみは、いわば排斥して行くような心しかない。いよいよおかげの受けられるように、どうして、このような有り難い道が開けて来たであろうかというような道に出る事のなしに、信心はしておっても、そういう方へ置けられないと。ね。どうでも一つおかげを頂かせて頂いてから。例えば、そん中に申しました、その井上さんのその話でもそうです。私どもは、これはもう本当に徹して、その、それはおかげがのと、それはおかげよと。例えば言うて、それがおかげと無理やりに分からせようとする。分からせ、ああ、そうですたいねと言いながらも、やはり心のどこかには抵抗を感じておる。ね。それよりもです、やはり、私の祈りが足りなかったといったような態度。ね。ある時に、あれは終戦直後。あるお婆さんが御本部へお参りされた。御主人がもう長い間患うておられて亡くなられた。その亡くなられたお届けを金光様の元に出られたと。金光様、ああしてお願いして頂きよりましたけれども、とうとう、何月何日に亡くなりましたと言うてからお届けをされた。そしたら金光様が仰ったそうです。私の祈りが足りませんでしたと仰ったそうです。ね。本当に私の上に、そん時こそもう、それこそ、もう恐縮されてですね。金光様、相すいませんと言うてから、その、いよいよ有り難いものを頂いて帰られたという話がございます。ね。それは、やっぱ神様の何か御都合である。ね。さあ、これからいっちょおかげを頂いたら良い。例えば、励ましの言葉よりも、何よりもその金光様のその謙られたその心のですね、その言葉一言で有り難いものを頂いて帰られたとこう。私は、信心には本当そういうようなものが、日常の中にも必要じゃないかという風に思うんです。そこに、私は臭いどくだみ的な事柄の中からです、ね、真っ白い花を見る事も出ければ、ね、同時にそれが万病の薬の本になる、薬になるような本も頂けて来る。そして、もう何とも言い知れない有り難いおかげの中に、おかげをおかげと感じれるような道が開けて来ると、こう思うのです。おかげ頂かなきゃいけません。